第6回 デスカフェ「SANSHIEN DÉ CAFE」
2022.3.12 -[お知らせ / Death Cafe - デスカフェ]
「死」について語り合う場は、少ない。
人と人とが「死」について話し合うということは、どことなく憚られるという印象が拭えない。
この現実を生きる我々にとってみれば、明確な答えが出せぬ課題というのは、どちらかというと歓迎されない印象がある。例えばそれが、悲嘆、悔恨、不安、あるいは、怒りや絶望といった、こころの動きが惹起される話題であれば、なおさらである。
あるいは、「死」について語るというのは、ある種の不謹慎さや、ともすれば穢れのようなイメージが纏まりつくのかもしれない。
人がこの世に生をうけた段階で、すでに「死」という宿命がつきつけてられている。
しかし「死」という重要なテーマほど、日常生活から避けられがちな話題というのも珍しい。
これは推測であるが、「死」を語るということは、ただ、避けられがちなだけで、ほんとうはそのような機会があれば、向き合ってみたいという人もいるのではないか。もしも、次のような問いが目の前にあったら、どう感じるだろう。
「私」が死ぬとしたら、どのような最期を迎えたいですか。
あるいは、私にとって大切な「あの人」が人生を終えようとするときに、どのような最期を望みますか。
このような問いに、まったくこころが揺らがないという人は、少ないのではないか。
公然と話すことが躊躇われる、しかし、重要である「死」というテーマ。
これについて話し合おうとする場が「デスカフェ」である。
吉川 直人氏(京都女子大学)は次のように話す。
「「死を語り合う場」がデスカフェです。暗くならず、ポジティブにカジュアルに、気軽に話すことができる場であれば、名称が違っていてもデスカフェと私は定義しています」。
デスカフェという場では、強制をしない。
参加者が語った内容の秘密は順守する、他人の意見や考えを否定しない、参加を強制したり、何かを押し付けることもない。
これは、日常生活では語りにくい「死」というテーマについて、参加者が各々、普段は話しにくいことでも話しても大丈夫ですよ、あるいは話したくないことは胸に秘めておいても良いですよ、という合意形成がすでに出来ている場ともいえる。
普段は話題にすることの少ないテーマについて話すことは、普段は使わない筋肉を動かすようなぎこちなさを覚えるが、「あぁ、ここでは死生観について話しても大丈夫なんだ」という温かさが徐々に肌感覚でわかってくる。そして、やさしく参加者各々の死生観に接近していくのが、印象的であった。
「死を意識することで、今を生きる大切さを感じられる」
ある参加者はそのように話していた。
「未だ生を知らず。焉んぞ死を知らんや」
(【出典】孔子『論語』より)
「生の意味も知らないのに、まして死の意味など知ることができようか」ということをいう。
しかし、言い換えれば、「死」に向き合うことで、「生」に対するリアリティと強度が得られる、ということもいえるのではないか。
死後のことはわからない。いまを生きるので精いっぱいで、現実的なことで忙しい。
しかし、時にはふっと立ち止まって、どのような最期を迎えたいかについて考える。
それは自分のいのちや使命に考えを巡らせ、より「自分らしく生きる」人生に繋がるきっかけの一つになるのではないか。きっと。